IF1:もし孫策が暗殺されなかったら (2)

 

張昭の江南統治

 しばらく目を中原の争乱から、孫策の根拠地である江南に戻しましょう。
 史実では孫策死後、孫氏政権は大きな政策転換をします。江南在地豪族層との「和解」です。
 孫策は袁術の武将として揚州制覇の戦いを進めていたころ、盧江太守の陸康とその一族を惨殺しています。陸康は「呉の四姓」と呼ばれる名家の出で、陸氏惨殺に象徴される在地名家の弾圧と、二張に代表される北来人士の積極登用が孫策政権の特徴でした。背景には、中原の混乱を避けての大規模な江南への民族移動があり、江南の下級豪族出身の孫氏は、むしろこうした北来勢力の保護者として振舞うことで力を保持していたと言えます。
 しかし、孫策の死によって軍事的な統制の弱まった孫氏政権は、在地豪族との和解を選択し、北来人士と在地豪族の二本足の政権に変貌していきます。顧雍や陸遜の登用がその具体的なかたちであり、孫権政権は在地豪族と結託したことにより、地方割拠政権の色合いを強めていくことになります。なお、史実では孫策に斬られた呉郡太守・許貢の遺児と食客が孫策を暗殺しますが、これは一人許貢の反感というのではなく、孫策の北進政策への反感が在地豪族に共有されていたとする説もあります。
 さて、孫策が袁紹と連携して許を陥落させる場合、江南における孫氏軍団の軍事的プレゼンスは孫策が死んだ場合ほどではないにせよ低下します。江南の留守番部隊は軍事面を程普、政治面を張昭が仕切っていますが、張昭は在地豪族の積極登用を進めることを提案します。なお、孫権は揚州に残っていますが、孫策が存命なので無論家督を継ぐ話はなく、孫家の家長でなければ所詮は若造。留守番部隊の要職にはつけないでしょう。
 程普も張昭の方針を受け入れますが、棟梁の孫策の承諾を得ていないことや、史実に比べて政権が安定していることなど、諸々の条件から、史実よりも不徹底なものになります。この結果、顧雍ら顧氏、朱桓ら朱氏との和解は進みますが、虐殺された陸氏とは対立が続きます。陸遜は元の名を陸議といい、孫策の娘を娶って孫家に仕えるときに、「孫」の字を名乗ることを許されて陸「遜」と改名しています。孫呉に仕えない陸遜ならぬ陸議は、江南を離れて孫氏と折り合いの悪い荊州の劉表のもとへ流れます。
 この陸氏の脱落を別とすれば、江南の孫呉政権は史実とほぼ同様の経過をたどって地元豪族を吸収していくことになります。ただ、史実よりも君主権が強くなることでしょう。
 

袁譚・劉備の敗戦

 再び北方の戦局に目を向けます。
 袁紹戦略により、孫策は曹操の残存勢力のうち、東部所領の徐州攻めを担当させられます。この時点で曹操が保持しているのはおおむね五州(雍州・司隷・豫州・?州・徐州)で、西方領土の雍州・司隷攻撃を袁尚、東方領土の豫州を劉備、?州を袁譚、徐州を孫策が担当します。ただし、豫州・?州・徐州は地続きであり、西部戦線を袁尚軍が単独で担うのとは意味合いが違ってきます。
 周瑜は正面から激突して浪費する愚を避けるため、袁譚の参謀たる郭図に「袁紹殿が2人の息子にそれぞれ一軍を預けたのは、後継者としての度量を測るためであろう。先に戦果を上げたほうを高く評価することは間違いない」と焚き付けます。郭図としてもそれは薄々感づいていたことなので「言われずとも分かっている」と一笑に付しながらも、?州攻略を急がせます。
 一方、劉備は劉表から借りていた兵でそのまま豫州攻略に入る予定でしたが、監軍として同行した?越が「荊州の兵をみだりに使われては困る」と引き揚げようとします。劉備は大義のためと必死で説得しますが、結局わずかの兵を貸し与えられるだけで、大半は荊州に帰ってしまいます。劉備の手元にはわずか5000足らずの兵が残されることになります。
 劉備はここへ来て、孫策に汝南黄巾の兵を返してくれるように頼みます。孫策は、「江南の政情が不安定なため、一時会稽に戻るゆえ、汝南黄巾は劉備殿が運用されよ」と廖化の率いる1万あまりを渡して軍を南に向けます。これは劉備を陽動作戦に使おうという周瑜の策です。
 東部戦線ではじめに戦端を開くのは袁譚です。袁譚は青州牧として領土の青州済南郡から?州済北郡に侵攻します。先鋒は張?。参謀は郭図です。曹操はこの方面には曹洪を総大将に、程cを参軍、張遼と楽進に補佐させた部隊を展開します。曹操郡の兵糧不足という不利な条件は東部戦線では変わっていないのですが、袁尚に先を越されることを恐れた郭図が速攻策を論じ、張遼の偽装投降を見抜けずに大敗します。郭図はその上、「負けたのは張?が敵に通じていたから」と言い逃れようとするため、張?は呆れてついに曹操へ降ってしまいます。圧倒的に有利なはずの袁紹陣営が、軍事的に敗れるだけならまだしも、投降者を出したことに激震が走ります。
 曹操は袁譚の侵攻だけで終わらないことは見越し、「終生のライバル」である劉備の豫州攻略戦には自身が出陣します。参軍は郭嘉と荀攸、護衛の許?に加え、徐晃や李典、于禁が随軍します。開戦当初は許?と張飛が一騎討ちで半日に及ぶ互角の戦いを繰り広げたりと五分の戦いが続きますが、曹操が日ごとにかまどの煙を減らして兵糧がつきかけている様子を装った上で陣を引き払うと、劉備は好機とばかりに追撃します。そのまま山間の狭隘路に出たところを、徐晃、李典、于禁らの伏兵に散々に打ち破られます。
 兵の大半を失った劉備はなんとか虎口を脱すると、許都に逃げ込みます。
 

徐州侵攻

 さて、曹操軍が袁譚・劉備との対峙に兵を裂いたのを確認すると、孫策は満を持して徐州に攻め入ります。初めの攻略目標は広陵郡。敵将は広陵太守・陳登です。陳登は正史には、その策謀で孫策の侵攻を退けたと記されており、苦戦が予想されます。孫策が汝南戦線で率いた兵のうち、汝南黄巾の大半は劉備に、在地豪族の義勇兵も袁紹(汝南太守・袁煕)に取り上げられていたため、孫策はほぼ「江南の精兵」のみで戦わなくてはなりません。曹操軍主力は袁譚と劉備に釘付けになっており、徐州は手薄とはいえ、まだまだ余裕とは言い難いのが実情です。
 また、孫策は江南兵の連戦を避けるため、江南に帰ると見せかけるのに合わせて、本拠地の留守番部隊と兵を交代させます。これによって再び気力の充実した兵を率いることが可能になります。
 周瑜は徐州攻めの手法として、在地の名家層との連携を模索します。孫策陣営にはこの時点までに張昭・張紘の「二張」が仕えていますが、張昭は徐州彭城郡、張紘は徐州広陵郡の出身です。周瑜はこうしたコネクションを利用して現地勢力に根回しを進めます。徐州の特に西部は、曹操がかつて父・曹嵩をときの徐州牧・陶謙配下の将に殺されたときに侵攻し、「徐州大虐殺」を行ったこともあり、曹操に対しては比較的反感の強い土地柄です。二張などが江南に逃れてきた背景もこの辺りにあります。
 広陵郡は曹操の虐殺を受けておらず、太守・陳登も広陵出身で地元住民に敬愛されているため、孫策軍は地の利を得ることができません。住民までも敵に回し、ゲリラ戦に苦しんだ孫策は一時撤兵します。
 しかし、周瑜は孫策が苦戦を「演出」している間に徐州各郡にひそかに謀略の輪を広げつつありました。そのキーマンとなるのが徐州臨淮郡の名士・魯粛子敬です。周瑜は以前から魯粛と親しく、魯粛の天下の志を解してもいました。魯粛は私財を散じて遊侠の士と交わっており、命を軽しとする侠客を多数養っています。魯粛は広陵太守・陳登に「賊将・孫策を討つため、義勇兵を連れて幕下に参じたい」と偽り、三千の兵を率いて広陵に入城。歓迎の宴の席で、陳登を暗殺します。
 さらに、魯粛の義勇兵に身を変えていた凌操・蒋欽ら孫作配下の将が、広陵城を内部から制圧しつつ、城門を開け放ちます。城外からも雪崩のように孫策軍が攻め入ると、広陵の兵はそれ以上の抗戦もかなわず、降伏します。
 孫策は地元の名士として名の知られた魯粛に、戦後の郡民の順撫を任せます。魯粛は陳登を厚く葬り、遺族を保護するとともに、郡吏の大半を従来通りの職にとどめ、租税を減免するなどの統治施策をとります。徐州はこれまで、曹操の虐殺から呂布の乱、袁術討伐、劉備の反乱にいたるまで連戦で疲弊しており、江南の富を背景にした減税措置で住民は息を吹き返します。
 西部の諸郡はもともと曹操への反感の強い土地柄でしたが、曹操が献帝を失って賊軍とされたことや、広陵が温情的に孫策に統治されていることなどをみて、孫策に寝返ります。もちろん、その裏には周瑜を通じた張昭ら徐州名士の働きかけがあったことは言うまでもありません。
 孫策は徐州を落とすと軍事行動を控えます。徐州統治は魯粛ら現地のものに任せ、同じく徐州出身の太史慈に徐州防衛軍を預けると、自身は寿春を新たな拠点とします。本拠地の会稽まで戻ってしまうと、北方の情勢に即応することができなくなるためです。一方で江南も完全に平安な状態になっているわけでもなく、孫策自身が揚州に身を置いておく必要もありました。長江北岸の寿春はその意味で、絶好のロケーションです。
 偽帝・袁術の「帝都」として荒廃した寿春を再建しながら、孫策は新たな戦乱に備えることになります。
 

長安降伏

 袁譚・劉備・孫策による曹操東方領土侵攻作戦は孫策の独り勝ちに終わったわけですが、西方領土、つまり洛陽・長安方面を任された袁尚はどうなったでしょうか。参謀に逢紀、副将に審配を配した袁尚軍は、手始めに洛陽侵攻を目指し、虎牢関を攻めます。
 洛陽を守るのは曹仁・夏侯惇・夏候淵の三将で、荀ケが参謀として従います。三将は虎牢関の険を頼みに袁尚軍の猛攻を凌ぎます。袁氏は公孫?との戦いや官渡でも見せたように、隧道による城攻めはむしろ得意とするところ。力攻めが不利と見ると、隧道作戦に切り替えます。虎牢関は並みの城壁よりも高いため、城壁上からの矢の射程が遠くなります。袁尚軍としては、隧道の入り口を射程外に設置せざるを得ないため、かなりの長距離の土木工事が必要になります。結果、この戦いは長期戦になります。  一方、并州牧の高幹も洛陽攻撃のために北から軍を発します。しかしこちらは、荀ケの作戦にしたがった夏候淵の別働隊に散々に打ち破られます。
 虎牢関の戦局が膠着状態に陥ると、許都の沮授が長安を落とすことを提案します。長安にいる有力な相将の多くは曹操の配下といよりは朝臣が多いため、袁紹が献帝を擁し、許都の朝臣の多くも袁紹に従っている現状では、袁紹になびく可能性も高いためです。
 沮授は自ら使者となり、戦場となっている虎牢関・洛陽方面を避けて荊州南陽郡から武関を抜けて直接長安に入ります。長安は董卓や李・郭の暴政で荒廃しており、復興の先頭に当たってきたのは鍾?です。鍾?はいわゆる穎川人脈で荀ケに連なる名士ですが、長安のほかの諸将の動揺を抑えきれず、沮授の説得に屈します。
 しかし、長安の兵の大半は夏侯惇に挑発されて虎牢関の守備に当たっていたため、防備は極めてもろい状態になります。沮授は函谷関を閉ざして洛陽方面からの攻撃を防ぎつつ、雍州から兵員を挑発して洛陽攻撃に備えることにします。
 長安の降伏に驚いたのは虎牢関を守る曹仁です。洛陽はこれで、腹背に敵を持つことになってしまいます。しかし、長安側から打って出る意思がないのを確認すると、洛陽には最低限の兵のみを置いて虎牢関守備に集中します。
 虎牢関の戦いは、夏侯惇が夜襲で隧道を幾度も破壊し、完成を妨害し続けることで長期化します。大軍勢を動員した袁尚側は食糧問題が起こり、兵力の半数以上を一度許都に帰します。事実上の撤兵です。
 

魏公推挙

 袁紹は沮授によって旧都・長安が奪還されたことを自らの功績として、それに見合う恩賞を望みます。戦に敗れて帰参した逢紀や郭図が、自身に厳罰が与えられるのを避けるために袁紹を持ち上げるため、献帝に奏上して「公」の位と九錫を賜るように工作を始めたためです。
 田豊はこれを知り、「帝室は高貴にして不可侵。爵位を望めば天下の人士は大将軍(袁紹)に簒奪の心ありとみるでしょう。願わくば今の官位のまま、漢朝の復興に尽力いただきますよう」と諫言しますが、袁紹の神経を逆なでする結果にしかなりません。田豊は袁煕が汝南太守に転じたことで空席となっていた幽州の刺史に任じられ、都を追われてしまいます。
 逢紀や郭図による執拗な奏上工作の結果、献帝もついに袁紹に公爵の位を授けることに同意します。劉備や張紘は諫止しましたが、宮廷内での袁紹派の力は強く、小鳥のさえずり程度の力しかありません。また、荀ケがスパイとしてあえて許都に残した陳羣も積極的に公爵への推挙に動いた一人でした。
 良日を選び、袁紹に爵位を授けるとの勅使が遣わされますが、袁紹は古式にのっとり、三度固辞。その上で四度目についに応え、参内して献帝から九錫を賜り、魏公の位を授かります。
 冀州魏国は袁紹の本拠地・?の所在する地で、史実では曹操もこの地を封土として与えられ、魏公・魏王から魏帝国の創朝にいたります。曹操は魏公に封じられてからは、帝都・許のほかに?にも政庁を置き、政府の二重化が進んでいくわけですが、そのおおもとには袁紹による?の発展があったわけです。官渡で曹操に勝った袁紹は、魏公の栄誉を曹操に譲ることなく、自身がその位に昇ることになります。
 劉備はこの一件で袁紹も曹操と同類と認識し、場合によっては許都を去ることや袁紹を討つことも考え始めます。孫策はあえて袁紹に対して祝賀の使者を送るのを見合わせます。
 天下の人士の反応は二つに分かれました。天下人・袁紹に媚びて祝意を述べるもの、袁紹に対して警戒感を顕わにするもの。逢紀はこうした反応をリトマス試験紙のようにして、反袁紹の人々をあぶりだすことを考えていました。しかし、思いのほか批判勢力は多く、一斉更迭のような強硬手段は取れませんでした。
 逢紀と同じように、百官の反応を見定めていた人物がいます。陳羣です。彼自身は袁紹に追従しながら、袁紹に反感を持つ勢力が少なくないことに力を得ます。


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