プレロールド型シナリオとGMとプレイヤーの権利義務に関する試論

 

1)プレロールドとは

 本稿ではタイトルの通り、プレロールド型シナリオにおけるGMとプレイヤーの権利義務関係について考察してみようと思う。その前提として、プレロールドとはなんなのか、プレロールド型シナリオとはなんなのかに付いて、簡単に触れなくてはなるまい。

 プレロールドとは、プレイヤーによるキャラクター作成の前に、GM側から一定程度の「設定」が用意されているキャラクターメイクの様式である。しかし、厳密に考えればほとんど如何なるシナリオにおいても、プレイヤーにはGMから与えられた設定の枠内でのキャラメイクが要求される。極端な話、「ファンタジー世界の冒険者」も、一つの設定(指針)である。それを無視して、ハーバード大の考古学教授だとか、魔王の329番目の息子だとか、遊星Xからの使者だとかをPCとして作成することは通例、許されない。

 しかし、「ファンタジー世界の冒険者」程度の設定をプレロールドとは呼ばないだろう。少なくとも本稿においては、そこまでをプレロールドに含めて議論をするつもりはない。

 次の段階として、PCそれぞれの社会的身分などを指示するタイプの「設定」がある。PC1は大学生、PC2はPC1の高校時代の友人で探偵事務所でアルバイトしている、PC3は私立探偵でPC2の雇用主、PC4はPC1の大学の友人、といった具合である。各自にこうした設定を配分するのは、セッションの展開上の思惑がある。序盤において自体にどのように関与させていくかであり、中盤にどのような調査手法、コネクションを持っているかであり、終盤の行動選択の際の利害関係がどのようになるかである。これらの一部ないし全部の要素を含むのが、個別役割設定型である。だが、まだプレロールドと呼ぶには弱い。逆に言うと、「ファンタジーの冒険者」「シャドウランのランナー」といった便利な存在のいない世界観では、これくらいの設定は与えられないとシナリオにならないのである。

 次の段階として、各自に人間関係や過去の経歴などの設定がついてくる場合がある。PC1の出身の村は昔、「バルフォリ族」と呼ばれる蛮族に滅ぼされた、PC2は恋人をバルフォリにさらわれている、PC3はかつてバルフォリ討伐隊に志願したがぼろぼろに負けた、PC4は実ははぐれバルフォリ。こうなると、それぞれのキャラクターについて、「ロールプレイの指針」がある程度与えられる。バルフォリとの心理的な関係をどのように関係付け、変化させていくか。主観的視点から見ると、どのPCを選ぶかによってセッションは全く別物になる。

 少し毛色が違うが、「裏設定」と呼ばれるタイプの設定もある。他のプレイヤー(並びにPC)にはセッション開始時点では秘密になっている設定を持つパターンである。「実はあなたは地球の征服を目論むリュミレト星人です」「あなたは地底人です」「あなたはヴァルモンのスパイです」といったショッキングなものから、「あなたはPC2に淡い恋心を抱いていますが、打ち明けられずにいます」といったものまで、その内容は様々。こうした裏設定は、それ自体が既にシナリオ構造の重要な一因子であることが多い。プレイヤーはその情報を持っていることで、その情報をどのタイミングでオープンするか、あるいはセッションが終わるまで隠し続けるのか、自らの判断で行うことが出来る。セッションの展開を部分的に、主導することが出来るわけである。後にも述べるが、「調査型シナリオの作り方」でも触れた「プレイヤー側から発信できる、意味のある情報」にあたる。

 このプレロールド論では、最後の2つの場合を特に「プレロールド」として取り上げることにする。

 その区分の眼目は、プレロールド設定がシナリオ構造に決定的に関わっている点と、プレロールド設定をキャラクター作成の心理的にも外縁的にも中心に据えざるを得ない点の、2点である。

 

2)プレロールドによるプレイヤーの「キャラ作成権」の制限

 プレイヤーは一般にRPGのセッションにおいて、「キャラクターを創造し、そのキャラクターを演じる」権利を有していると考えられる。これを「キャラ作成権」と呼ぶことにしよう。しかし、プレロールド設定は前述の通り、「プレロールド設定をキャラクター作成の心理的にも外縁的にも中心に据えざるを得ない」ものであるため、本質的にプレイヤーの「キャラ作成権」を制限していることになる。

 では、キャラ作成権とはなんなのか。また、キャラ作成権の制限ないし侵害は、許されるのか、許されないのか。

 RPGにおいて自分の演じたいキャラクターを作成し、実際にそれを演じることは、一つの楽しみではある。また、誰にもプレイヤーとして演じられるキャラクターには限界があり、自分の演じられるキャラクターを作成するという意味でも、キャラクターの自由な作成には意義があるといえる。

 しかし、キャラクターを「演じる」というときに、2つのパターンがある。

 キャラクター個体に魅力を見出し、そういう「魅力的な」キャラクターを演じることによって楽しむ行き方を、「キャラクタープレイ」と呼んで排撃する議論がある。敢えて反発を恐れずに言えば、わたしもこちらの議論に属する。キャラクタープレイにおいては、その楽しみは自己生産的で、その享受は主としてプレイヤー本人になされるものであり、GMはこうしたキャラクタープレイを成立せしめる「場」の提供を求められる形になる。キャラクタープレイヤーは自ら享受する楽しみの余波をセッションの同席者に分け与えることによって、その楽しさの共有化を図るが、本質においてベクトルが自己へ向いているものであることは変わらない。自己満足、自己陶酔と言える。カラオケ構造と呼んでもよいだろう。

 対して、そのキャラクターに与えられたセッション内での役割の側面を重視した「演じる」働きを、「ロールプレイ」と呼ぶ。ロールプレイにおいては視点はセッション本体に向けられており、キャラクターに与えられた「ロール(役割)」を果たすことが、セッションの展開を有効に促すものとして肯定される。その基礎性質として、卓を囲む面々によって共有されているところの「セッション」を中心に据えたものであるため、大局的にはそのロールプレイは参加者全員に利を及ぼすものとして設定される。

 無論、実際のセッションにおける「演技」の、キャラクタープレイとロールプレイとを区分するところは極めて曖昧であり、形の上でロールプレイに属するような演技でも、時間的分量的に度が過ぎれば、キャラクタープレイ的と非難されることもあろう。

 また、キャラクタープレイはそれ自体、RPGの魅力の一つであることは事実である。だからここでは、「過度のキャラクタープレイ」を否定するにとどめておこう。

 さて、このように見てきてお分かりいただけると思うが、プレロールドによるキャラ作成権の制限は、主としてキャラクタープレイを抑圧する働きを為すばかりか、ロールプレイを用意なら占める効果を生む。あるいは、キャラクタープレイをロールプレイに置換すると言ってもよい。プレロールド設定によって与えられる設定は、シナリオそのもの、ひいてはセッションそのものに深く関連づけられており、そのような設定を下敷きにしたPCのキャラクタープレイは、必然にセッション中での役割を持つ演技、すなわちロールプレイになるわけである。情報と発信の概念を用いていえば、「意味のある情報発信」である。

 もちろん、プレイヤーの自由なキャラ作成権を剥奪することにはかわりがない。ロールプレイに昇華されたとはいえ、そのキャラクター自体がプレイヤーにとって魅力的である保障はないのである。

 ここに、公私の概念を導入する。

 キャラクタープレイは、根元的に「私」である。プレイヤーが個人として楽しむ行き方がキャラクタープレイであり、セッションへの寄与はその付録であると考える。対してロールプレイは「公」性を強く持っている。セッションそのものにコミットするロールプレイにおいて、自己満足はむしろ付録的である。「主人公的決断」を迫られる、などという非難じみた言説は、それが私益よりも公益を優先支えた構造であるがゆえに、私の部分に負担を強いていることの傍証である。

 このように単純に分別して、公を私よりも優先すべし、という一言で議論が終わるとは思わない。

 私権の制限は、「公共の福利」の範囲内でなされなければならないというのが戦後憲法の思想であり、一つの有意義な基準だと思う。RPGにおいても、プレイヤーのキャラ作成権という私権を制限するのは、それに相当するだけの公共の福利、すなわち私権制限にとってしか成立し得ない有意義なシナリオ、あるいは私権の制限によってより面白くなるシナリオがあってはじめて許されることである。プレロールドプレロールドを導入するGMは、ここのところのバランスに留意していただきたい。

 より簡単に、あるいは実務的にいうのであれば、制限、設定をしたからにはフォローを入れなくてはいけない、ということである。設定のそれぞれにイベントのフォローを入れるか、節目節目でプレイヤーに「カード」として使わせるか。その手法論は、与えた設定の性質によりまちまちで、ここで語るべき内容ではあるまい。

 マスターの側がそれだけの真摯な対応をしていても、プレイヤーとしてどうしても自由にキャラクターを作成し、そのキャラクターで遊びたいというのであれば、プレロールド型のシナリオには参加するべきではないだろう。

 またキャラ作成権の制限がどの程度まで許容されるかも留意が必要である。前述の通り、キャラ作成には「好みのキャラクターを創造する」側面と、「演じられるキャラクターを作成する」という2つの側面がある。特に後者の制限は死活的な影響を及ぼしかねない。性格や心情、あるいはシナリオ上での役回りなどで、プレイヤーにはどうしても得手不得手が出てくる。

 プレロールド、裏設定型の場合、PCの分担の際にそれぞれのキャラクターについて十全な情報を与えられないため、プレイヤーが予期していたのとは違うタイプのキャラクターを演じなくてはならないことも時として起きる。GMとしては格別の配慮の望まれるところである。

 

3)GMとプレイヤーの権利義務

 わたしは基本的に、マスター主権論に立つ。セッションにおける楽しみ、楽しみ方は基本的にGMが提示する権利を持つと共に、その責任を持つべきだという考え方である。プレロールド型のシナリオは、マスター主権論と親和性が高いことは論を待つまい。

 何故、GMに楽しみ方を提示する権利があるかといえば、彼がセッション参加者の特異点であり、シナリオという全体設計図の保持者であり、裁定者だからである。

 プレイヤーは大枠において、GMの提示する枠内でセッションを楽しむことが推奨される。もっとも、これに「スパイス」を加味することは認められるであろう。だがそのスパイスはあくまで副次的なものであって、主流的なものになることは厳に慎むべきである。

 何故慎まなければならないか。この一線を侵すと、セッションの場は力量だけが支配する場所へと変じかねないからである。

 セッション空間を「支配する力」というものがある。この力というのは、あるいは技量であり、個人の存在感(社会的身分も含めて)などの様々な要因が絡み合った後に出てくるものである。そうした力の強弱は、厳然としてある。

 また、何を以て「楽しい」と感ずるかが人によって異なるとするならば、このような「自力救済」の方途をとれば、力の強いものは常にその果実を得るが、弱いものは常に虐げられる結果を生む。

 そのような危険性を考慮するならば、GMという特異点があらかじめセッションの「楽しみ」とする点を提示する権利と責任とを託され、大筋においてプレイヤーはそれに協力する行き方をとるには妥当性がある。

 誤解のないように言うが、これはセッションの運営が常にGM主導であるべきだという議論ではない。そのセッションをGM主導とするかプレイヤー主導とするかを含めて、GMに提示の権利があるという意味である。

 わたしが好むタイプのシナリオは、プレイヤーにPC裏情報などを通じて「状況」を与え、行動はプレイヤーの自由に任せるものが多い。そこでは、イベント作成までプレイヤーに任せてしまっている。GMはプレイヤーに渡していないシナリオ進行表などをにらみつつ、プレイヤー主導のイベントに少しだけ手を加える。こうしたセッション運営のあり方は、基調においてGMたるわたしが提示した範囲内であり、GM主権論の枠内である。

 もう一点留意すべきは、GM主権論を採る場合、セッションの「責任」の多くはGMがとるべきだという覚悟である。プレイヤー主導のセッションにするにせよ、プレイヤーが主導できるような環境整備から、プレイヤーのアクションに対するフォローまで、GMのやるべきことは多い。GM主導のシナリオタイプならなおさらである。基本ラインを引く権利が与えられている以上、それに相応する責任が生じるのも、当然といえよう。

 

 

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