注意!

以下の文章は、何故か『スタイルズ荘の怪事件』(アガサ・クリスティ)の結末について触れています。
未読の方で今後読むつもりのある方は以下の文章を読むのを止めた方が賢明です。
以下の文章より『スタイルズ荘の怪事件』の方が面白い事は私が保証します。


















甲斐高風のGAME REVIEW

『キャプテン・ラヴ』(ハムスター、東芝EMI/プレイステーション)


「愛を、感じてほしい」(『FINAL FANTASY VIII』(スクウェア)惹句より)



















 強引に言ってしまえば、『キャプテン・ラヴ』がもたらした衝撃は『スタイルズ荘の怪事件』(アガサ・クリスティ)のそれに似ていると言えるだろう(せっかく注意書きまで書いたのだから『スタイルズ荘の怪事件』について触れないともったいないし)。 ミステリの掟破りの女王、アガサ・クリスティがかの名探偵エルキュール・ポアロを初登場させた作品として有名な『スタイルズ荘の怪事件』は、要するに「第一容疑者が真犯人」というミステリなのである。 これはミステリファンにとって誰よりも「意外な犯人」である。 なにせ、ミステリといえば読者を欺く為に、
「助手が真犯人」
「容疑者全員が真犯人」
「探偵役と思っていた人が真犯人」
「被害者が真犯人(自殺)」
「自然現象が真犯人(事故)」
 と、ありとあらゆる「意外な犯人」を描いてきたわけであり、ミステリファンなら無意識に「第一容疑者」を容疑者から除外(!)してしまうくらいなのである。
 そう、『スタイルズ荘の怪事件』は安易に「意外な犯人」という道具に甘えてきたミステリとそのファンに対する痛烈な皮肉でもあるのだ。
 そして、この犯人を「意外な犯人」と受け止められるくらいにはミステリファンでないと、この作品を読むのはもったいない。

 さて、『キャプテン・ラヴ』である。この作品、要するに「愛」を描いたギャルゲーである。

 一般的にギャルゲーといえば、その最大の売りは、言うまでもなくキャラクターだ。一人でも多くの人に購入してもらうには、一人でも多くの人の心をつかむキャラクターを提示しなくてはならない。 それには、複数のキャラクターを提示するのが効果的である。 しかも、小説、アニメ、コミック、ドラマ、映画等と異なり、パラレルな展開を許容するゲームというメディアでは、その複数のキャラクターをそれぞれヒロインにすることが可能なのである。 と、いうわけで様々な「属性」「萌え」(例えば「人気声優の演じる声」とか「眼鏡っ娘」とか「メイド」とか「幼なじみ」とか「健気」とか)という道具を持ったヒロインズが各作品に登場しているわけである。
 逆に言えば、大抵のギャルゲーが「恋愛ADV」というジャンルであろうが、大抵のギャルゲーのヒロイン達が主人公と恋に落ちようが、それは、
「好きな人の前で素直になれない」
「好きな人の為に指を包丁で傷付けながらも一生懸命お弁当をつくる」
「好きな人がくれた何気ない贈り物を大切にとっておく」
「好きな人にやきもちを妬く」
「好きな人との愛情と、大切な友達との友情の狭間で苦悩する」
 といった「属性」「萌え」を使ってヒロイン達の「恋する女性」としての魅力を描いているだけであり、「愛」を描いているわけではない、ということになる。
 そもそも、ギャルゲーのヒロイン達や主人公がいくら葛藤していても、プレイヤーは(そのゲームがパラレルな展開を許容することを知っているので)葛藤することはない。ゲームというメディアの最大の特性が、「愛」すべきヒロイン達を単なる「攻略」の対象に貶めてしまうのである。

 これに対し、『キャプテン・ラヴ』はパラレルな展開を許容しない。唯一人のヒロインとの「愛」を貫くストーリーなのである。 単にそれだけなら、むしろ他のメディアの方が表現に適しているはずである。 ではこの作品がゲームで描かれる必要性はどこにあるのか。 それは、「敵役」の存在にある。 彼女達は今まで多くの人の心をつかむのに極めて有効な道具であった「属性」「萌え」を武器に、主人公に挑んでくる。 他のギャルゲーなら各々ヒロインズを構成していたであろう彼女達は、しかし、「敵役」(彼女達とラブラブに→ゲームオーバー)でしかない。 彼女達は「攻略」対象という己の特性を最大限に活かした罠なのである。 主人公にとってはともかく、プレイヤーにとってこれは脅威だ。 そう、彼女達が、『キャプテン・ラヴ』という作品が真に挑んでいる相手は主人公ではない。我々、プレイヤーなのだ。
(この点については繰り返し流されるオープニングムービーにおいてプレイヤーを各声優と同じキャストの一員として扱うことで、高みの見物としゃれこむゲーム世界の「神」の座から引きずり落としていることを傍証として挙げておく)
 パラレルな展開を許容せず、主人公もヒロインも「敵役」の彼女達も敵対する組織の面々も、登場人物のほぼ全員が「愛」の被害者でありながら「愛」を求めているこの世界は、 要するにデフォルメされてはいるがプレイヤーの現実と同じ世界観を持っているということである。 そんな世界で話が進行するに従ってプレイヤーは、恋人について、親子について、友人について次々と選択を迫られる。 どの選択もとても「正解」とは思えない中でプレイヤーは苦悩し、葛藤しながら、本気で主人公達の為に「正解」を求めるようになる。
 それこそ、正に、「愛」だと言えるのではないだろうか。
 そう、『キャプテン・ラヴ』は安易に「属性」「萌え」という道具に甘えてきたギャルゲーとそのファンに対する痛烈な皮肉なのである。
 だからこそ、「属性」「萌え」に魅かれるギャルゲーファンでないと、この作品を遊ぶのはもったいない。
(そういう意味では、『スタイルズ荘の怪事件』がミステリファンからの評価が高いのに対し、『キャプテン・ラヴ』はむしろギャルゲーファン以外からの評価が高いのは本当にもったいないと思う)

 要するに、『スタイルズ荘の怪事件』がミステリファンにとって「意外な(それでいてストレートな)犯人」を提示したように、『キャプテン・ラヴ』はギャルゲーファンにとって「意外な(それでいてストレートな)愛」を提示したのである。

 最後に付記するならば、この文章が全くの的外れであったとしても(ヒーローものとしての側面や、論撃について全く触れていない為その可能性は極めて高い)、『キャプテン・ラヴ』や『スタイルズ荘の怪事件』の魅力が損なわれるわけではない。
 それだけで私は満足である。


「恋愛は個人戦だもん、協力のしようがないわよね」(近藤香織)


『キャプテン・ラヴ』応援委員会へ
TOPへ